昭和47年11月04日 朝の御理解
御理解 第65節
『日柄方位は観るに及ばぬ、普請作事は使い勝手の良いのが吉い家相じゃ、吉い日柄と言うのは空に雲の無いほんぞら温い自分に都合の良い日が吉い日柄じゃ、如何に暦を見て天赦日ぢゃと言うても、雨風が強うては今日は不祥のお天気ぢゃと言うではないか、日のお照しなさる日に吉い凶いはないと思へ。』
金光さまの御信心がスッキリと身に付くと、スッキリト信心が身に付く65節の御理解などをそうだと分からせて頂ける所迄参りますと、信心もスッキリして来る。信心も中々観念と言った様な物は抜けきらないものですけれど、金光様御信心頂いておると是が段々スッキリした、実に他愛もない事、滑稽な事それを私共は心の何処かに、それが引掛ると言う様な程度の時には、まだ教祖のお言葉が信じられていない時です。
お道の信心は教祖様が教えて下さる事を信ずると言う、信じる事が出来ると言う事が、お道の信心者の言うなら一番素晴らしい事だと思です。教祖様はそう仰っておられるけれどもと、そのけれどもが付く間はスッキリとした金光教の信心が身に付いてない時だと私は思うですね。お道の信心のスッキリと身に付く、勿論おかげも同時にスッキリとしたおかげが頂けると思うです。どうでしょうかお互い永年信心を頂いておりましても、やはり其処ん所が、スッキリしない人が沢山有ります。
そして段々分からせて頂く事、今此処に自分に都合のよい日がよい日柄じゃと言う様な所、そんなら自分に都合の悪い日は、よい日柄ではないかと言う風に思われます、自分に都合のよい日が吉い日柄じゃと、そんなら自分に都合の悪い日は吉い日柄ではないと言う頂き方であっても又いけんのです、信心させて頂いて自分に都合の良くない例えば日であったとしましょうか。
今日は何処にか旅行しようと思う、それにその日が雨風であったと、自分が旅行しようと思う、おかげで此処にあります、ほんぞら温い自分に都合のよいお天気がある日はおかげ頂いたと言う、吉い日柄と言うっけれども、それではない今日は出かけ様と思うのに雨風が強かったと、すとその日はよい日ではないとこう思う。だからそれでも金光さまの信心なら、やはり其処の所がやはり神様の御都合と言うか。
神様のおかげとして頂ける様にならして頂いて、初めてこの65節の全てが身に付いたスッキリしたと言う事になるのじゃないかとこう思うですね。今日はだからそう言う意味の事を、言うなら此処の御理解のお言葉にある、もう一つ向こうの所、自分に都合の悪い、ほんぞら温かいではない、今日は厳しく寒い、今日は厳しく暑いと言った様な日でもです、それを有難いと頂けれる所に、私はお道の信心のスッキリとしたと云う頂き方が出来た時だとこう思うです。
話をききますとね一応はなら合点がいく、けれどね、けれども中々実感としてそれをおかげとして頂けない。昨日うは祭日で福岡の香維花園ですかで中にかそこで撮影会がある、それで高橋さん所にお寿司の注文が五百あっとった、前の日から、それで五百作る事をお取り次ぎ頂いておられたから、その事をお願いさして頂いとったら、御承知の様に朝方なんかはもう土砂降りに近い様な状態でありました。
それで昨日の朝の御祈念の後に又改めてお願いが御座いました、それはもう勿論さあと言うて出来ませんから材料なんかも寄せてちゃんとして御座いましょうし、それで五百出させて頂く様に、お繰り合わせお願いしとるから、お願い通りになさったが良かろうと言う事であったからまあお店の方でも、それを準備なさったに違いない。段々おかげで天気が上がって丁度ならお弁当を求めなければならないと言う様な、お昼頃からあんな良い天気に段々なった。
恐らく昨日はまだそれから聞いとる訳じゃないけども、撮影会に沢山な人が集まってお弁当も売れた事であろうとこう思うんです。だからそう言う様な場合はですね、例えばね信心を頂いとると言う事が本当に有難いと思うんですよね、昨日是は恒例の様になってしまいましたけれども、永瀬さんの所の柿山で柿狩りがありました、何時も招待を私うける訳ですよ、丸小の人達が大変楽しんで昨日の柿狩りを楽しんでおる毎年の事なのであります。ところが今言うように。
朝からならおしめりで御座いましたから、今日は柿狩りが出来るか出来ないかわからない、どんなにさせて頂こうかと言うて改めて又永瀬さんからお届けがあった位です、おかげを頂いてから有難い楽しい柿狩りが出来ました天気が良かった。天気の方が自分の都合の良い様に、都合の良い様に変わって行ってくれる。だからそれはおかげである、今日は言うなら天赦日じゃと、今日は神様に許されての言うなら柿狩りであったなと思わせて頂くから、まあ愈々有難い訳です。
ですから此処迄は例えば信心がある者は、その特別のおかげを、おかげと有難いなあと思うだろうとこう思うです。所がそんならそれがもし反対の場合であってもと云うのです。高橋さんの所で言うなら五百の弁当が出来たお寿司が、所が土砂降りで弁当が一個も売れなかったと例えば致しましょう、それは確かに大損ですよね、けれけどもそう言う時には言うならば、天赦日ではなくて悪い日であったと言うのではなくて、その普通から言うたら悪い日と思われる様なそう言う時、自分に都合の悪い時。
自分にかえって損になる時、そう言う様な時をです私は大事にしてゆく事によって、それも又おかげであると言う事になる。昨日お道の新聞が来とりましたが、まあ内容を読んでおる訳ではありませんけれども、大きな見出しの中に「重なる災難が信心の節」と言う見出しで出ておった。重なる災難それが信心の節だとこう言う、だからその節が私はおかげでないと言う事ではない、その節があるからそこから伸びるのである、節があるからそこから枝もでるのである。
して見るとそれはですよりおかげであると言う事が分かる、此処に重なる災難が信心の節だと、其処でそう言う信心の節に直面致しますと、その節からそれを有難く頂けずにしだこだにする人がある、信心を止める訳じゃないけれども。其処で信心が何時もしだこだである、おかげも又受けたり受けなかったりと言った様な感じのしだごだになるのです、いやその節からポッキリ折れてしまう人すらあるのです、その節が大事な時です。そう言う事がです、私はスッキリ分からせて頂くと言う事がね。
この65節の御教えの言うなら、此処ん所が分かる事によって、金光様の信心が、スッキリして来ると言うのは、其処が頂けてそして、此処が分かった時に、愈々スッキットした、おかげが頂ける様になった時だと思うのです。自分に都合の良い時だけ、都合の悪い時、言うならそれが重なる災難がと云う様に、まあ一つの災難と感じられる様な時ね、その災難と思われる様なそこをです。厳密にいよいよ元気な心でね、頂かせてもらう様な、信心の姿勢が出来て来ると言う事。
其処から私は陽のお照らしなさる内に良い悪いは無いと思えと言うスッキリとした。信心の根本的な姿勢とでも申しましょうかね。根本姿勢と言うのは出来て来ると思います。それがいわゆる自分の物になる、話をきけば人事の様にして人の話なんかを聞いておるとです。もう本当に分かったようにある。あの人はああ言う災難に会われたけれども、あの災難を境にああ言う素晴らしい力を受けられた。
ああ言う徳を受けられた、ああ言う世良い信心が育ったと見、あの人はあの節であそこをぐずぐずされたから、信心が何時迄もぐずぐずしとる、いやああ言う節に出会われた時に、信心がポッキリあの人は折れて、無くなったと、しまえてしもた、と言う様な事をこれを第三者的立場から見るとですハッキリ分かる。成程ああ言う時にはああ言う行き方をしなければいけないんだ、ああ言う行き方はいけないんだとか、ハッキリ分かるんですけれども、それが人事の様にして聞いておりますから。
自分の事になると其処が疎かになって、自分の事になると、出来ない分からない事になってしまう。ですからそう言う其処の所を、一つ大事に頂かしてもらう。是私の信心の歩かせて頂いた道を振り返ってみましてもです、もう何時の場合でも私はそう言う云うなら節の所から合楽は芽が出ておるようにあります。その節のところから愈々伸びておるように思う。確かに節はあったけれども、そこを只しだごだで通ったと言うと所です、ハッキリせず只難儀と言うものが残っておおきな言うならそこから。
大きな枝がでると言うところが、枝が出らんなりに、すんでおると言う人が多いようです。ですからもう愈々其処とコロを、大事にさせてもらわなければいけん。自分に都合の吉い日が吉い日柄じゃと言う様な素晴らしい事が分からせて頂く、もう一つ向こうの信心としてです。自分に都合の良い日でない、言うなら節でもあろうかと災難と思われる様な例えばその事をです、神様のそれをおかげとして。
神愛として受けられる様になった時にです、初めて自分に都合のよい日が吉い日柄じゃと言うようなスキットした考え方が出来るようになるのじゃないだろうか。人ごとの様にして聞いておる時には合点が行っておるのですけれども、自分の事になるとそれが出来てはいないと言う事実が、結局自分に都合のよい日だけしかよか日じゃないおかげの日じゃないと言うような頂き方では、私は此の65節がスキッリと頂けたとは言えないと思うです。昨日柿狩りから帰らせて頂いた。
えらい遅くなってもう夕方でした、それからあの山から沢山お花の材料になる様な物を頂いて来てましたから、もう裏さん入らずそのまま、大きな会堂にあの大きな応接間にあった大きな茶壺が有りましたよね、あれを此処に持って来らせてそれにお花を愛子が入れました。本当になんて云うですかね、秋の色がいわゆる耳納山の一角を持って来た様な感じに、お花が見事に生け上げられております。
それから、お風呂に入っておりましたら、久留米の、佐多さんの、お婆ちゃんがお参りをして来られました、佐多さんの、弟さんになられる方が同道して、お医者さんです、今度又アメリカの方へおいでられる、それでまあ、行かれる前に先生にお会いして行きたいと言うので、見えとると云う事でしたからすぐ、お風呂から上がって、すぐそのままでお会いしました。そしてまあ色々信心があんなさるものですから。
それでもやっぱ合楽を尋ねて、見えておるのですから、やはりあの信心を一口でも何か聞いて頂きたい。それにはやはりあのう、私がおかげを受けておる事まあ言うなら、是が合楽の流儀だ、芯だと言った様な物を聞いて頂こうと思うて、その日一日の柿狩りの事を話させて頂いた。そして今そこに花を生けさせて頂いた、今私がおかげとはこんな物であろうか、本当に是もおかげである彼もおかげであると感じて来た事を、そのまま話を聞いて頂いた訳でした、所謂昨日のその御理解にもとずきまして。
自然の中に溶け込むと言う事、是がまあ私の信心の流儀です、自然の働きに逆らわない、自然の働きをそのまま受けると言う事は、自然の働きにそのまま溶け込んで行くと言う事、そして溶け込んで行っておってその自然の働きを生かすと言う事、と言う事をです、まあ柿狩りの一日で私感じた、いわゆる私の流儀でいって見事におかげを受けておる、その事実を見てもらったり聞いてもらったりした訳です。
沢山柿を頂いたりお食事を呼ばれたりしましてお腹が少し大きゅうなったから、少しその山を歩いてお腹を少し減らそうと、と丁度上に何様かお祀りしてあるお堂が見えますから、そのお堂目当てに高橋さんの車で参りました。自動車でずっと行ったですね。登っても登ってもそのお堂が見つからんのです、下から見るにほんなそ其処ごたったけれども、登っても登ってもあのーそのお堂に出てこない、それでもやはり道がきれいに出来ておりますから段々登っておりましたらとうとう山頂に行ってしまった。
一時間位かかったのじゃないでしょうか、そしてそのお堂が有ったのはどこに有ったのか分からなくなってしまった。山頂まで来ましたから、山頂の峰ずたいにこう下から見えとります、テレビノあそこ何か塔があります丁度そこ迄も行ってしまった、耳納山の一番高い所で御座いましょう。それはもう山頂から見る筑後平野は一望にしてもう本当に見事な景色でした、是は来年から柿狩りに招待されたら、下で柿を一杯頂いて、お弁当は此処まで持って来て此処で頂いたら良かろうと思う位にあった。
歩かせて頂くうちにです、お花の材料にもなろうと思われる様な物を沢山、それこそ自動車の中にいっぱい枝を入れましたから、それこそ自動車の中に、朱色が濃く自動車の中に積んでおる様な感じで下りて参りました、そしたら下りて来ましたらですね、そのお堂の横をやっぱ通ってるんですけれどもね、その見当たらなかった訳です、帰りには、はあ此処に有ったと言う事でした。
ですからそこで私共がです登る時に、そこにお堂を発見しておったらです、もうおそらくそのお堂ぎりで下りて来ておったに違いありません。無かったとこまで登っても見あたらなかった、道は付いておるからさっさと登らせて頂いたらおかげで山頂に、いわゆる耳納山のいわゆるとっぺん迄も登る事が出来た。そこでおかげで色々な花の材料を頂かして頂く事が出来た。
ですからそう言う様な所にです、私はその自然の働きと言うものを本当に感じずにはおられんのです何時も、神様の願いはそのお堂にありと言う事よりも、やはり私を山頂に導いて下さるそしてあの秋の景色を眺めさせて下さる。心行くまで堪能させて下るそれだけではない沢山のお土産になる、そのお花の材料も神様は与えようと思うて御座る。是は自然がその様に私を導いて下さった、私の考えは手本の所にある麓の所にあるそのお堂であったっけれども、それを分からなかったおかげで上まで登る事が出来た。
自然の中に私は融け込んで行くと言う事はそう言う事だと思う、そしてそんならその花を沢山頂かせてもろうて、此処え今日はそこで、今日から明日にかけて、この地区の高校生の方達が沢山集まって信心実習を致します、ですからやはり、その会堂にも大きな花が一つ欲しい所。是だけの花の材料を花やで買ったら随分のお金をとられる事だろう、いや又こう言う様な花の材料は花やにはないだろうと、思われる様な花の材料をです、沢山頂いて花が生け上がってしまってからです。
言わば自然の中に溶け込んでそしてその自然を生かした姿が、昨日の話を縮図にした様に、僅かの時間にそう言うおかげになって来ておる訳です、皆さん帰りに御覧になって下さい見事に大きな花が入れてあります。けれどもそう言う行き方がです、言うなら私の行き方なんですもう一つもそこには、まあ言うなら流れる水の様にさし障りがない、いやそこにせき止められる様な場合があってもその横からこう流れていると言う、探してもなかった愈々探したからそんなら此の辺で下ろうと言う事ではなしに。
そこをやはりずうっとこう、流れるではなく登っておる訳ですけれども昨日の場合は。そしてそこから自然を生かす時には、私共が夢にも思わなかった様なおかげが展開して来ておるのです。ですから此処迄登って来たけれどもお堂は無かったと言う時点です、其処ん所を大事にしなければならない、自分の思う通りになっていない、けれども思う通り所か思う以上のおかげが、山頂にあったと言う事になってくる時、そこからお花の材料を頂いて帰って、うちに生け上げさせて頂いてです。
いよいよ生かすと言う事はこう言う素晴らしい事だと言う事が分かる。神様の言うならば働きに逆らわない其処ん所は実は、合掌して受けられない様な事柄でありましても、やけり合掌して受けて行くと云う事が本当だと、それが自然に溶け込んで行く事だと、溶け込んで行って自然を生かす、それを合楽ではその時点を御事柄として頂く、成り行きを大事にすると言う風に頂く、ですからそれが成りそんの行きの中に、御事柄と御の字を付けなければならない程しのおかげになって。
おかげが開いて来ておるしと言う事になります。自分の都合のよい自分の思う通りになると言う事が、それはおかげでありますけれども、より本当のおかげと言うのは、自分に都合の悪い、言うなら自分の思う通りになっていないと言う時にです、それはよりおかげの頂けれる神様のご神意であると分からせてもろうて、其処ん所を例えて言うなら今日の御理解で言うと、重なる災難が信心の節と此処では信心の節と云われ、此処ではそう言う言葉が使っておられますがです。
其処ん所を言わば元気な心で頂きぬかせて頂く所から、信心がいよいよ成長して来る。其処から新たな枝が出てくる、其処から信心の本当の成長。どう言う風に成長するかと言うと、降る事もおかげなら照る事もおかげと言う様な事が実際身をもって感じとらせて頂く事が出来る。その体験がです私はスッキリとした、頂き方と言う事に成るのじゃないだろうか、只こう言う御教え頂かせてもろうて、考えて見なさい。
日柄やら方位やらありゃ迷信ですよと、家を建てるのに家相を観るとかこんな馬鹿げた話はないですよと、そう言う事に縛られて馬鹿な話ですよと。先日も日田のある大きなホテルの方が三億円からかかっての御普請をおっこにお願いにみえて始められた、所がある所に聞いて、何処さんにもいっちよお参りして聞いてみなさいちゅてから、今年は釘一本だ打ったら災難が起こると言わっしゃった。
釘一本でも打っちゃいけないと今年は。あったがたは。と言う訳でそれを来年伸ばしにしたと言うお届けがあったんです、それは後になって見なければ分からないけれども、私が言うとった様に例えば今年着工しておられて、来年の春はもう出来上がると言う様なおかげを頂いとったら、いろんな意味でおかげを受けておったでしょうけれども、そう言う愚にも付かない迷信をです、今年は釘一本でも打っちゃいけんと言うそれにひっかかった、信心がないとそう言う事になる。
日柄とか方位とか言うそう言う迷信に、だから是を頂くとです確かに金光さまちゃ中々便利がいいなあよか日も悪か日もなか、と言った事だけは分かるんです。金光様にお願いしてすればと言うけれどもそれが例えば此処に表面にでておる、そう言う事がなる程と合点が行っただけではつまらない本当にスッキリしたものになって来ない。何かそこに節でも例えば言うならば災難のような事でも起こって来ると、ははあんあん時に家ばあげんして扱うたけんじゃなかろうか、と言う様な事に愈々引掛って来る。
其処でですその引っかかる事その事自体もです災難、その事自体もです。それもおかげであると分からせて頂いた、その先にです今日の御理解が頂けた時に、始めてスッキリとして頂けたと言う事になるのじゃないかと思う。普請を思い立ちなさるなら日柄も方位も無いですよと言われたから、ああそうですかと分かると言うだけでなくてです、例えば是が節であろうか災難であろうかと言う様な事に直面させて頂いてからでもです、その事自体がおかげであると、御事柄として受けてゆけれる生き方。
そう言う生き方が身に付いて来て初めてです、今日の65節がスッキリと頂けたと言う事になると私は思います。ただ説明を受ける、ただ、言うて聞かせてもらうと言うだけなら、是を読んだだけでも分かるけれども、それが自分の物になるた為にはです、ただいま申します様な、言うなら節と思われる様な所をです、いわゆる元気な心で頂き、いわゆる御事柄として頂き抜けれる様な信心を初めて身に付けて、それを体験して、昨日の私の柿狩りの一日ではないですけれどもです。
わざわざお堂を目当てに参ったけれども、とうとうお堂は探し当てずにしもうた、けれどもその事がおかげであってこう言う素晴らしい花が生け上がったと、そこ迄行かなければ分からない、してみるとその事が目当たらなかったと言う事が、おかげであったと言う事が分かるでしょう、それを生け上げて見て初めて分かる。自然の働きに言うならば合流する、神様の御働きに溶け込んで行く其処からです、その事柄を生かして行くと言う事は神様の御働きを表すと言う事になる。
そう言うおかげであって私共もおかげ、例えば本当に今日の柿狩りは大変な有意義であった、こう言う柿のお土産だけではなくて、こう云う素晴らしい花のお土産迄頂いてと言う事になる。そん時に初めて神様が下さろうとしておる真意を悟らせてもろうて、柿もさる事ながらこう言う花を下さろうとする、御神意を分からせてもらうのです。そん時に初めて神様が私ども柿狩りだけの楽しさであったら、それは私共だけの楽しさ、けれども神様が、耳納山頂までも連れて行って下さって。
ああ言う花が生け上がった時に、初めて神様の願いが、そこに成就した事になる、神様の言うなら、御働きをそこに現した事になる。そう言うおかげを、神も喜び金光大神も喜び、氏子もの喜びと言う事になる、神様に喜んで頂くおかげとはそう言う、おかげである。願った事が成就したではなくて願った事は成就しなかったけれども、成就しなかったその事がらがこう言う大きなおかげを頂く元であったと、おかげを頂いた時にです初めて神様の願いが成就すると言う事になるのです。
その神様の願いが、成就する時にはとても、私共が願った通りの、おかげ位なおかげではない、おかげをです体験させてもらう、そう言う私は、おかげを受けさせて頂いて初めてです、この平盤的にですね、其れを感ずるこの、六十五節のそう言う、迷信的な考え方から、スッキリとした金光教の信心の、言うなら、真髄と思われる様な信心が、身に付く時だと思いますね。
どうぞ。